2021年02月10日(水) Vol.546 佐藤暢(高知工科大学)

あれから10年

 皆さま、こんにちは。KNS四国支部世話人のひとり、高知在住の佐藤暢です。久しぶりのコラムの担当番が回ってきまして、あれこれ考えたのですが、東日本大震災から10年を迎えるタイミングでもありますので、当時の思い出などをつづってみたいと思います。
(東日本大震災で犠牲となられた方々に哀悼の意を表しますとともに、今なお避難生活を余儀なくされている皆様方に心からお見舞いを申し上げます。また、復旧復興に向け日々尽力されている皆様には感謝を申し上げます。以下、個人的な経験談ですので、もしかすると不適切な表現もあるかもしれませんが、どうかご容赦ください。)
〇その日、高知で
 2011年3月11日(金)の昼下がり。私は当時、JST(科学技術振興機構)による地域イノベーション創出拠点のひとつである「JSTサテライト高知」の事務局長として、2008年10月より高知に赴任しておりました。このころJSTは、国が進める「地域科学技術振興・産学官連携事業」の一環として、「プラザ」あるいは「サテライト」と呼ばれる拠点を全国各地に設置しており、四国地方には「サテライト徳島」「サテライト高知」の2拠点がありました(サテライト徳島は徳島大学、サテライト高知は高知工科大学の一室をお借りし、居を構えていました)。ちなみに東北地方には「プラザ宮城」と、後から出てきます「サテライト岩手」がありました。

 さて、この「地域科学技術振興・産学官連携事業」ですが、民主党政権化における行政刷新会議による事業仕分け(2009年11月13日)において「廃止」の判定がなされたことはご記憶の方もおられるかと思います。「地域における産学官連携の推進は国主体ではなく地域主体に実施すべき」といった評価結果であったかと思います。全国16館のプラザ・サテライトは、2012年3月末日を以てすべて業務終了、廃止されることになりました。
 時を戻して2011年3月11日の午後、私はサテライト高知の館長である細川隆弘先生(現・高知工科大学名誉教授)と長い打合せを行っていました。サテライト高知の業務終了まで残すところ1年。この期間で、サテライト徳島と協力連携を強化し、四国の関係機関との良好な関係を損なうことなく、如何に円満にサテライトを閉鎖させるかといったことを検討していました。おりしも私は4月からサテライト徳島の事務局長を兼務することが決まっており、いわば「サテライト四国」としてどのような活動をするかが課題となっていました。そのため、この日の夕方にはサテライト徳島のスタッフを高知に呼び、両サテライトのメンバーで意見交換を行うことにしていました。その準備のため、私は館長と二人で館長室にこもり、さまざまな話題について、根を詰めた議論を行っていました。
 15時過ぎであったかと思います。執務室のスタッフが館長室のドアをノックし、恐る恐る入ってきます。
 「お話し中、すみません。佐藤さん、ご家族から電話が・・・」。
 「こんなときに、なにごとか」。
 正直な第一感でした。もちろん、家族が勤務先に電話をすることなど、めったにあるものではないと思います。半面、議論が白熱してきたところだったので、少なからず「水を差された」ような印象を受けたことは否めません。
 館長室を出て、自席の電話を取ります。
 電話は高知市の自宅にいる妻からでした。開口一番、彼女はこう言いました。
 「関東地方で大きな地震があったらしいの。」
 私も妻も関東地方の出身です。ちょっとやそっとの地震では動じません。
 「そんなことで。」
 と、私は不機嫌な態度を取ったように思います。
 しかし彼女が続けます。いつもより早口であったように思います。
 「両親と電話が繋がらないの。あなたも掛けてみて。」
 私の両親も妻の両親も埼玉県に在住していました。携帯も固定も繋がらないらしい。
 「電話ね・・・いますぐ? 会議中なんだけど・・・」。
 すると彼女はさらに強い調子で、
 「テレビをつけてみて。」
 このとき、はじめて緊迫と不安がよぎりました。
 私はいったん電話を切り、細川先生に断りを入れつつ館長室のテレビを付けました。
 津波が飛び込んできました。おそらく仙台平野を飛ぶヘリからの映像だったと思います。
 在室のスタッフたちをテレビの前に集めます。誰も声を出せません。
 我に返り、慌てて両親に電話を。しかし携帯電話は全く繋がらない。事務所の固定電話で何度もトライして、なんとか無事を確認しました。私たちの両親の住む地域は「震度5強」とのことでした。身内には大きな問題はなかったようで、少し安心しました。
 ほどなくサテライト徳島のスタッフが到着。落ち着かない中で、しかし業務を止めるわけにもいかないので、当初の予定どおり、打合せを進行させます。夜は食事を交えての交流もしました。お店には他の客もいて賑やかでしたが、みな心中ここにあらずという雰囲気でした。それでもまだ全容を知ることはできない状況であったかと思います。翌日は土曜日。週末は家族ととともに家にこもり、ずうっとずうっとテレビを見続けていたように思います。

 3月下旬に緊急の事務局長会議が招集され、東京へ飛びました。到着した羽田空港は寂しげでした。節電対応のためJRの駅が薄暗かったのが印象的でした。ふと、学生時代に東ヨーロッパに旅行したときの光景を思い出しました。同時に、「この程度の照明でも、全く問題ないのでは」と感じたものでした。
 JST東京本部での事務局長会議にて、被災地に立地するプラザやサテライトの事務局長が、当時の状況を詳しく報告してくれました。発災当時の状況、その後の対応、県や自治体との連携、大学等研究機関の被災。東京本部の職員からは、職場と帰宅時の混乱のことなども。とくに記憶に残ったのは、サテライト岩手の事務局長から聞いた、「発災直後に停電してしまったため、テレビも携帯電話も駄目で情報が入らず、沿岸地域の状況を知る手立てがなかったこと(むしろ東京方面からの情報が詳しかったこと)」。また、サテライト茨城の事務局長からは「千葉や茨城でも大きな被害が出ているが、メディアの中心は東北(原発を含め)であり、関東沿岸の小さな自治体が見捨てられている」といった話がありました。
 ところであまり知られていませんが、この時の津波は高知県にも到達しています。たとえば、いまやゆるキャラ「しんじょう君」で有名となった須崎市では、午後5時に1.46メートル、午後9時には2.8メートルの津波高が観測されました。人的被害はなかったと思いますが、係留していた漁船が転覆したり、養殖筏が流されたりするなど、高知県全体の水産業の被害は26億5300万円に上ったといいます。

〇岩手へ、三陸へ
 高知(四国)に戻り、サテライトでは大きく次の2つについて議論を重ねました。(1)とくに産学官連携の観点から、遠隔地にありながら被災地に貢献できることはないか? (2)この“国難”から我々は何を学ぶべきか? とりわけ、来たるべき南海トラフ地震に対して備えるべきことは何か?
 このような折り、INS(岩手ネットワークシステム)の年次総会が、ほぼ当初の予定どおり5月28日(土)に開催されるという情報が入ってきました。私はこのときすでにKNSのメンバーでもあり、INSのことも話では聞いていましたが、INSそのものに参加したことはありませんでした(MIU Caféに参加したことはあります)。何ができるか分からないけど、彼の地に行けば人にも会えるし話も聞けるし、なにより三現主義(現地、現物、現実)に基づいて行動すれば、なにか見えるもの感じるものもあるだろう。ということで、以前より交流もあった“事務局長”の先輩でもあるサテライト岩手の箭野謙さんに連絡を取り、岩手に向かうことに決めました。
 出かける直前、箭野さんから連絡が入ります。
 「一緒に三陸沿岸を見に行きませんか?」
 私は戸惑います。“物見遊山”という言葉がよぎります。1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災当時、私は京都に住んでいました。大学卒業を控えた慌ただしい時期であることなどにより、このときは被災地に赴く機会はありませんでしたが、視察や見学に対する批判があったことを覚えていて、逡巡してしまいました。「被災地を見に行く」というのは如何なものか。そもそもどうやって行くのだろう。やはり迷惑になりはしないか。
 箭野さんは続けます。
 「道路は復旧してます」。
 おお、それならば、レンタカーでも入れますね。
 「バスも走ってます」。
 おお、公共交通なら、ますます安心ですね。
 「宮古からの鉄道も一部復旧してます。田老まで行けます」。
 これで決まりました。
 それでも、どこか後ろめたい気持ちは拭えません。
 「高知から呑気に何しに来た」なんて言われたら、どうしよう。。。
 INSの交流はとても有意義でした。いろんな方がいろんなお話をしてくださいました。
 笑いあり、涙あり。「話を聞きに来てくれるだけでもありがたい」と仰った方もいます。少し気持ちが和みました。
 KNSからの参加者が多くいることを知り驚きました。地元の方に促されて座った隣に大阪から来た長川勝勇さんがおられて、「あれまあ、こんなところで」とお互いに顔を見合わせたのを覚えています。そしてこのとき、KNSメンバーは復興支援に行くことを知りました。私には、「現地を見て学ぶ」という意識はあっても「復興ボランティア」の発想がなく、なんだかとても恥ずかしい気持ちになりました。

〇「見てきたことを伝えてください」
 酒を酌み交わしながら、
 「佐藤さん。明日はどうされるのですか?」。
 県職員さんの問いであったと思います。
 後ろめたい気持ちが帰ってきますが、私はおずおずと、しかし正直に、
 「明日は三陸に行こうと思っているのですが・・・。」と、言うと、
 「それは良い! ぜひ見てきてください。」と、彼は明るく答えます。
 そして、
 「見てきたことを、ひとりでも多くの人に伝えてください!」
 涙目でした。
 この言葉は、私に勇気と自信と覚悟を与えてくれました。
 
 翌朝、盛岡から106急行バスで2時間走って宮古へ。徒歩で宮古の市街地を回ります。駅前の商店街、宮古市役所、シートピアなあど。驚きばかりです。魚菜市場には、津波を体験した缶詰と、「それでも、海と一緒に生きる」というPOP。
 道すがら、家屋にスプレー書きした「解体OK」と、長嶋茂雄氏の直筆による「がんばれ宮古」のコピーが胸に刺さりました。
 宮古から三陸鉄道で田老へ。
 三陸鉄道は「沿岸」を走っているはずなのにトンネルが多く、山岳鉄道のようです。
 田老の駅も、直前までトンネルでした。
 トンネルから出た瞬間、「あぁっ!」と声を上げてしまいました。
 そのあとは、もう言葉になりません。
 高校生らしき若者数名に続いて列車を降ります。
 何もない駅前に車が止まっていました。彼らを乗せて動き出します。
 駅から高台を見渡せば、被災を免れた家屋が見えます。
 彼らはそこに帰っていくのだろうか。友人や知人も亡くしたろう。。。
 廃墟のような街並み。ぐしゃぐしゃの野球場。
 「万里の長城」と言われた防潮堤を越えて街中に乗り上げた船。
 その防潮堤もボロボロです。
 パラパラと雨が降ってきました。
 倒れた電柱や、つぶれた乗用車が山積みになっていました。
 街中を走る国道45号線には「災害派遣隊」の垂れ幕を付けたトラックが行きます。
 うずたかく積まれた瓦礫の山に止まったカラスが私たちを見つめます。
 ただただ無言で、下手な写真を撮り続けました。

 その後、同年6月に愛媛で開催した「KNS in 四国」で話題提供をする機会をいただき、三陸で見てきたことをプレゼンさせていただきました。「見たことだけでも伝えられたら」との思いでした。川井保宏さん(当時は四国経済産業局勤務)はじめ、当時のKNS四国支部世話人の皆様に感謝します。また、JSTサテライトでは、震災復興をテーマにした研究発表会なども企画、開催しました。地域からの高い関心を集めたと思っています。
 JSTサテライト終了後、私は高知工科大学に籍を移すことになりましたが、「科学技術で震災復興」のコンセプトのもと、新たに設置されたJST復興促進センターとのご縁をいただき、岩手県釜石市の水産加工業者さんとの連携プロジェクトに参加することとなりました。岩手・三陸方面に足を運ばせていただく貴重な機会を得ることができました。
 さらに、2016年4月に発生した熊本地震に関するJSTの復興促進支援活動を通じて、東日本大震災当時に岩手県災害対策本部の医療班長として現場を指揮された秋冨慎司先生(現・防衛医科大学校・准教授)と交流する機会を得ました。2017年6月には高知の産学官民コミュニティ「土佐まるごと社中(TMS)」の主催による講演会にもお招きしました。秋冨先生は、大震災を教訓に南海トラフ地震への備えが急務であるにもかかわらず、大震災の記憶が薄れていくことをたいへん懸念されていました。
 「我々に今できることは何でしょうか。」
と問いますと、彼はきっぱりと答えました。
 「決して、忘れないことです。」
 東日本大震災から間もなく10年。得られたご縁や思いを大事にしたいと思います。
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追伸)
 私も理事の末席を汚しております地域活性学会では、2021年5月に「東日本大震災後10年特別大会」を開催するべく準備を進めています。参加費は有料ですが、非会員でも参加可能ですので、ぜひご検討ください。

地域活性学会東日本大震災後10年特別大会
会期:2021年5月22日(土)- 23日(日)
会場:東根市さくらんぼタントクルセンター(山形県東根市中央一丁目5-1)
大会テーマ:災害からのレジリエントな社会
    https://www.chiiki-kassei.com/pb/cont/taikai/408
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