2018年12月26日(水) Vol.442 村井仁(五條市)

無意識の記憶

ストーブに火を入れると、思い出す。
灯油とリンシードオイルの匂いが混ざるアトリエ。
何本かの絵筆とペインティングナイフ。
歯磨き粉みたいなサイズの絵の具チューブ。
何時間も夢中で絵を描いていた学生時代は、もしかすると今より時間の豊潤さを理解できていたのかも知れない。

当時は日本でMacintoshが発売されてからまだ数年程度の昔。
学内にも数台のMac?があった程度で、僕ら学生のグラフィック・アートは当然ポスターカラーやアクリル絵の具での手作業が主流だった。
ケント紙を水張りしたA1パネルに、何度もイメージしたデザインを鉛筆で下書きする。
絵の具は絵皿に出し、スポイトで水を少しずつ加えながら指で優しく混ぜる。
これは絵の具の粒子の混ざりを直接感じられることに加え、筆と違って絵の具を泡立たせずに均一に混色するのに一番良い方法だった。

村井仁

塗面積に対して色が途中で足らなくなると、中途半端に作品の色が変わってしまうので混色は大目に作って一気に塗り進める。
白いパネルがどんどん染まっていく過程がとても楽しく、時間なんてあっという間に過ぎて行った。
仲間の中にはイヤホンで音楽を聴きながら格好よく創作するヤツがいて、一度真似してやってみたけど、僕はリズムがあると何か急かされている様な気がして集中できなかったから、やめた。

油絵と出会いは少し後。
それまで水性絵の具しか知らなかった僕は、その特性の違いに戸惑い、すぐにはその面白さが理解できなかった。キャンバスに乗せた色はベタベタとなかなか乾かないし、もちろん均一に塗る面白さはない。また絵筆も絵の具も水彩のそれより高価で、オイルも溶剤も買わなければならない。貧乏学生には油絵の道具は高過ぎるとも思っていた。
そんなある日、油彩の模写の課題がでた。僕は何気なく、モネの作品「Régates à Argenteuil(アルジャントゥイユのレガッタ)1872年」を選び、見本のプリントポスターをイーゼル脇に留めた。
作業に入る前、その作品は白い帆付カヌー(レガッタ)が、セーヌ川に浮かぶ様子を「全体にブルーグレーの印象にまとめられたもの」程度の認識しかなかった。
キャンバスに木炭で構図をざっくりと写し取り、いざ色を選ぼうとした時、予期せず鳥肌が立ち、自分が硬直しているのがわかった。
今でもうまく言えないけれど、色が重なりあうことで作品の内側から湧き出るように発色する奥行とその深み。
寒色の間に隠し味のようにちりばめられる暖色。繊細なのに豪快なマチエール。2次元なのに確かに存在する光と空気。
色も形も、必要最小限でありながら全てに意味があり、一筆一色どれが欠けてもこの作品が成り立たないという、極限のバランスがそこにあることに気づいた瞬間だった。

そこからは、本当に寝ることさえも忘れて油絵を描きまくった。具象も抽象も、モチーフは何でも楽しくて、まるで泥んこ遊びに熱中する子どものように、メディウムでマチエールを造り、絵の具を練ってはキャンバスに乗せる。何かに導かれるように、筆先から始まる世界の変化に酔い痴れていた。
油彩は乾きが遅いのでいつも4?5枚の作品を同時制作していた。食事や通学の時間さえ惜しくて、本当はダメだったけど、隠れてアトリエに寝泊まりもした。電気を点けていると守衛さんに見つかってしまうので、電気を消して、灯油ストーブの炎の明るさもキャンバスで隠して・・・・。

絵を描くことに出逢って得たものはとてもたくさんあるけれど、一番の果実は、自分が意識できる範囲が、実はとても狭いものであると知ったこと。
意気揚々と創作を進めた翌朝。ふと、パレットに目をやると、そこにある鮮やかな色合いに驚くことがある。
それは、欲しい色を求めて何度も混色を繰り返した、作品への軌跡で、絵の具を混ぜたナイフの跡も、作ったけれど少ししか使わなかった色も、パレットはそのままに記憶し、静かに主張している。
パレット自体は単なる道具だけど、そこに存在する色や形は作品同様、間違いなく僕の手から生み出されたもので、自分の分身ともいえるもののひとつ。ただその違いは、僕の意識の中か外か。
パレットを見るとき、いつも無意識の自分の内面を浮き彫りにされ、見せつけられたようで、くすぐったい変な感覚に、少し気恥ずかしくなる。

あれから僕は社会人として、多くの人や、たくさんの出来事に出逢い、当然のように自分の意思と意識を以て20数年の年を重ねた。あの頃よりはお金も少し使えるし、グラフィックデザインソフトも使えるようになった。

そしてこの冬も、ストーブに火を入れる。
リンシードオイルの匂いはもうしないけれど、僕の無意識は今、どんな色と形をしているのだろう。

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